★【六川亨の日本サッカーの歩み】鈴井コーチ誕生の経緯

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▽今週は先週に引き続き、JFLから関東リーグに降格したブリオベッカ浦安のコーチに就任した鈴井智彦くんを紹介したい。今年で46歳になる彼の指導者としてのスタートは、09年にFC琉球のヘッドコーチから始まった。

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▽今週は先週に引き続き、JFLから関東リーグに降格したブリオベッカ浦安のコーチに就任した鈴井智彦くんを紹介したい。今年で46歳になる彼の指導者としてのスタートは、09年にFC琉球のヘッドコーチから始まった。JFA(日本サッカー協会)公認A級コーチの資格を取得し、その後は秋田 U-18 監督やアカデミーダイレクター、栃木のスカウティング、大分U-18の監督などを歴任し、今シーズンから浦安のヘッドコーチに就任した。

▽彼と初めて出会ったのは、東海大学を卒業する前だった。静岡学園、東海大とサッカーの名門校を歩み、大学時代はレギュラーではなかったものの、草サッカーでは群を抜いていた(当然ではあるが)。

▽そんな彼が、当時務めていたサッカーダイジェストに入社を希望していると、部下だった金子達仁くんから相談を受けた。金子くんは、東海大のエースで、その後はGK大阪でプレーし、現在は宮大工をしている礒貝洋光くんと親交が深かったため、礒貝くんを通じて鈴井くんを紹介されたのだった。

▽会ってみると、とても素直な好青年だった。そのまますんなり入社が決まったものの、サッカー一筋の人生だったため、記者・編集者としては金子くんや上司で現在はフリーの記者として活躍している戸塚啓くんから厳しい指導を受けた。

▽そんな彼の転機となったのは、やはり金子くんの存在が大きかったのだろう。金子くんは95年の結婚を契機にダイジェストを退社し、憧れだったヨハン・クライフが監督を務めるバルセロナへ移住する。バルセロナには当時、専門誌の契約カメラマンが長く在住していたため、その縁もあって移住しやすかった。

▽そんな金子くんを追って、同年には羽中田昌くんが指導者を目指してバルセロナへ旅立つ。さらに翌年、鈴井くんも「記者ではなくフォトグラファーになりたいんです」と相談を受け、ダイジェストを辞めた。

▽その後、鈴井くんは08年までバルセロナに滞在し、フォトグラファーだけでなくスポーツライターとしてもナンバーなどで活躍。帰国後は金子くんが経営に関わっていたFC琉球の広報としてチームを支えていたが、いつのまにか指導者の道に転身し、J2の複数のチームを渡り歩き、今シーズンから浦安のヘッドコーチに就任した。

▽思い起こせば金子くんの後を追ってバルセロナに渡った羽中田くんと鈴井くんが、同じチームで夢を追うのは当然のことかもしれない。2人とも指導者として成功を収めたとは言い切れないが、だからこそ浦安で頑張って欲しいと願わずにはいられない。
【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。

2018年2月19日(月)19:00

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