★【平成サッカー30年の軌跡】 平成15年/2003年 リーグでの変化と代表が迎えた過渡期

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新元号が「令和(れいわ)」に決定し、2019年4月30日をもって幕を閉じる「平成」。日本サッカーにとって、「平成」という時代は大きな変革を遂げた30年間となりました。

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新元号が「令和(れいわ)」に決定し、2019年4月30日をもって幕を閉じる「平成」。日本サッカーにとって、「平成」という時代は大きな変革を遂げた30年間となりました。Jリーグ設立、ドーハの悲劇、日韓W杯招致…。激動の30年を平成の出来事と共に振り返ってみましょう。

世の中の流れ


2003年、イラク戦争が勃発した。大規模な戦闘は短かったものの、中東情勢はその後泥沼化していった。

■泥沼化していく中東情勢
平成15年(2003年)を代表する出来事と言えば、その後の世界に大きな影響影響を与えたイラク戦争の勃発です。3月に、大量破壊兵器の保持をめぐって、アメリカ・イギリスによるイラク侵攻作戦が開始。イラク軍との戦闘が開始されます。大規模な戦闘はわずか2カ月ほどで終わり、12月にはサダム・フセイン元大統領を米軍が拘束に成功しました。しかし、大量破壊兵器の発見には至らず、それどころかイラク国内の治安が悪化したことで戦闘は長期化。イラク戦争は泥沼化していきます。

一方、ちょうどイラク戦争が勃発した3月頃から、中国で新型肺炎SARS(サーズ)が大流行。7月に終息宣言が出されるまでに32カ国で700人以上が死亡するなど、世界中を震撼させるパンデミックとなりました。

日本では大相撲で横綱の世代交代が起こります。平成の大横綱として、絶大な人気を誇った貴乃花と武蔵丸が引退。代わって朝青龍が横綱に昇進し、モンゴル人初の横綱となります。この朝青龍を皮切りに大相撲では、しばらくモンゴル人横綱の時代が続くことになります。また、プロ野球では、故星野仙一監督が率いる阪神タイガースが18年ぶりのリーグ優勝を果たし、大きな話題を呼びました。




サッカー界

Jリーグでは、鹿島・磐田の2強を横浜FMが、最終節での奇跡の大逆転で破った。

■2強時代の終わりを告げた、横浜F・マリノス”奇跡”のリーグ完全優勝
2003年までのJリーグは鹿島アントラーズとジュビロ磐田の2強が続いていました。というのも、Jリーグ開幕の4シーズン目、1996年から7年間に渡って、鹿島アントラーズ(1996,1998,2000,2001)とジュビロ磐田(1997,1999,2002)がリーグ年間優勝の座を奪い合っており、その他のチームが年間優勝から遠ざかっていたからです。

迎えた2003年シーズン、1998年フランスW杯で日本代表を率いた岡田武史氏を監督に迎えた横浜F・マリノスが1stステージを優勝します。しかし、2ndステージでは鹿島、磐田の2強がやはり力を見せ、横浜FMはリーグ最終戦の時点で、首位磐田に勝ち点3差、2位鹿島に勝ち点1差、4位のジェフユナイテッド千葉と同勝ち点の3位でした。

横浜FMの最終戦の相手は首位の磐田。横浜FMが優勝する為には、①横浜FMが磐田に勝利、②鹿島が敗戦、③市原に得失点差、総得点で上回れないという3つの条件が必要であり、2ndステージを優勝しての完全優勝というのは、ほぼ不可能と見られていました。

そんな中、横浜FM vs磐田の試合が始まります。すると、開始2分でグラウのゴールが決まりあっさり磐田が先制。さらに、15分には横浜FMのGK榎本哲也が不要な暴力行為で退場し、10対11の数的不利な状況に追い込まれます。

その頃鹿島は、2-0で浦和相手にリードしており、横浜FMの完全優勝の夢は非常に厳しい状況にたたされていました。前半を終わり、首位磐田、2位に鹿島、3位には市原が入り、横浜FMは4位にまで転落していたました。

しかし、横浜FMは後半5分にセットプレーからマルキーニョスが決めて同点に追いつくと、後半ロストタイム、なんと久保竜彦がルーズボールを押し込み、1点ビハインドかつ、数的不利という絶望的な状況から逆転勝利を収めました。

一方、鹿島も後半に入ってから浦和に1失点を許し、後半ロスタイムへ。すると、エメルソンが土壇場でゴールを決め2-2の同点に。まさかの引き分けに終わり、市原も0-2で終了したものの得失点差で追いつけず、横浜FMが首位に立ちました。

なお、2位に市原、3位に磐田、4位に鹿島という最終結果となり、横浜FM、市原、磐田の3チームは勝ち点で並び、得失点差での順位決定となりました。横浜FMは“奇跡”の大逆転リーグ完全優勝を決めたのでした。

前述の通り、それまで7年間に渡り、鹿島と磐田がリーグ優勝をほしいままにしていましたが、2003年のこの横浜FMや後の日本代表監督となるイビチャ・オシム率いる市原など、Jリーグで2強以外のチームが台頭し始める事になります。

■過渡期にあった日本代表


ジーコ体制になって初めて挑むコンフェデ杯では思うような結果が出なかった。

その頃、ジーコの下で個性を強調したサッカーへの転換を進めていた日本代表は、アジア王者としてコンフェデレーションズカップに出場します。結果は1勝2敗で予選リーグ敗退。「組織」から「個人」への移行はスムーズには進められていませんでした。

また、このコンフェデレーションズカップでは後の大会に影響を及ぼす悲劇が起きました。準々決勝でコロンビアと対戦していた、アフリカ王者カメルーンのマルク=ヴィヴィアン・フォエ選手が試合中に心臓発作で倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまったのです。この悲劇をきっかけにFIFAが大会自体の方針を変更。コンフェデレーションズカップは現在のように4年に1度の開催になり、各国リーグ戦との日程を無視した超過密日程の見直しが行われました。


2019年4月15日(月)21:00

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