★中村俊輔の引退で忘れられないFKとCK/六川亨の日本サッカー見聞録
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現役選手である以上、いつかはユニホームを脱ぐときが来る。「稀代のファンタジスタ」である中村俊輔(44歳)も、今シーズン限りでスパイクを脱ぐことを表明した。
現役選手である以上、いつかはユニホームを脱ぐときが来る。「稀代のファンタジスタ」である中村俊輔(44歳)も、今シーズン限りでスパイクを脱ぐことを表明した。すると日本代表のチームメイトである遠藤保仁や中村憲剛らをはじめ、海外からも彼の引退を惜しむ声が寄せられると同時に、印象に残るFKの数々をプレイバックしていた。
俊輔と言えば、やはりセットプレーからのゴールが印象深い。
とりわけ個人的に記憶に鮮明に残っているのが、2000年10月24日のアジアカップ、レバノン大会での準々決勝、イラク戦の同点ゴールだ。これは俊輔のゴールではなく、名波浩のゴールだったが、右サイドでのFKに多くの選手がゴール前に殺到した。しかし俊輔はゴール前ではなくペナルティーアーク付近にハーフライナーのクロスを送った。
すると後方から走り込んできた名波はフリーとなって左足インサイドのボレーシュートをゴール左に突き刺した。狙い通りのトリックプレーだったが、俊輔の精密なクロスと名波の高いシュート技術が結実した、アジアカップ史に残るビューティフル・ゴールだった。
当時のチームには彼ら2人の他にも小野伸二、三浦淳寛らFKの名手が揃っていたものの、やはり俊輔の左足は別格だったと言えよう。
ただ、アジアの頂点に立っても俊輔はトルシエ・ジャパンでレギュラーを約束された選手ではなかった。小野、中田英寿、小笠原満男らとの熾烈なポジション争いは日韓W杯の直前まで続いた。
日韓W杯にエントリーする最終メンバーが発表されたのは5月17日のこと。日本はその前に5月2日にキリンカップでホンジュラスと対戦し(3-3)、7日はサンチャゴ・ベルナベウでレアル・マドリーと(0-1)、14日にはオスロでノルウェー代表と対戦(0-3)して帰国し、“運命の日“を迎えた。ヨーロッパからの帰路ではFW高原直泰がエコノミークラス症候群を発症し、代表から外れるアクシデントもあった。
そして俊輔である。代表メンバー発表前の国内最後の試合となった神戸でのホンジュラス戦ではCKとFKから2ゴールを決めた。まず前半26分、右サイドからのFKを直接決めて1-1の同点に追いつく。このシュートはGKの正面だったものの、万歳をするような格好から両手の間をすり抜けて決まる、「GKのキャッチミス」とも言えるゴールだった。
しかし前半41分の右CKからの同点ゴール(2-2)は、GKにとってノーチャンスと言える完璧なシュートだった。左足から放たれたクロスは、かなり高い軌道でホンジュラス・ゴールに向かい、GKを越えるとゴールライン付近から急激に曲がって左ポストを叩いてゴール内に飛び込んだ。
右拳を握りしめてガッツポーズを作る俊輔。彼自身はこの2ゴールでW杯のメンバー入りへ大きく前進したと思ったのではないだろうか。チームのエースナンバーである「背番号10」を受け継いでいた名波は右膝を傷め、2001年4月にコルドバでスペイン代表(0-1)と対戦して以来、トルシエ・ジャパンからは遠ざかっていた。
このため「10」を引き継ぐのは俊輔だと誰もが思ったはずだ。しかし、俊輔はメンバー外となり、「10」はベテランの中山雅史が背負うことになった。
俊輔がメンバー外となった理由として、3-5-2の左サイドのアタッカーには小野や三都主アレサンドロ、守備では服部年宏らがいるからとか、ベンチスタートだとチームの一体感を乱す態度がトルシエ監督に嫌われたなどと言われたものだ。
その後は06年ドイツ大会と10年南アフリカ大会と2大会連続して出場したものの、FKからのゴールはドイツ大会初戦のオーストラリア戦での先制点のみ。それも最初はクロスに競ったFW柳沢敦のゴールと思われる、直接狙ったシュートではなかった。
むしろドイツと南アでは、ケガに悩まされたW杯と言える。南ア大会の直前にはスイスとオーストリアで事前キャンプを張ったが、俊輔はいつも別メニューで、フィジカルコーチとマンツーマンで練習していたのが印象に残っている。
フィジコいわく「原因不明の右足首痛」とのことで、岡田武史監督も右サイドMFを俊輔にするか本田圭佑にするか大会直前まで悩むことになった。
W杯で活躍することはできなかったが、それで俊輔のプレーが色褪せることはない。独特のフォームによる鮮やかなFKからのゴールの数々は、いつまでも人々の記憶に残るはずだ。
2022年10月20日(木)21:10