★【平成サッカー30年の軌跡】平成2年/1990年「バブル崩壊とJ発足へのカウントダウン」

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新元号が「令和(れいわ)」に決定し、2019年4月30日をもって幕を閉じる「平成」。日本サッカーにとって、「平成」という時代は大きな変革を遂げた30年間となりました。

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新元号が「令和(れいわ)」に決定し、2019年4月30日をもって幕を閉じる「平成」。日本サッカーにとって、「平成」という時代は大きな変革を遂げた30年間となりました。Jリーグ設立、ドーハの悲劇、日韓W杯招致…。激動の30年を平成の出来事と共に振り返ってみましょう。

世の中の流れ


サー・アレックス・ファーガソンと写真を撮るネルソン・マンデラ氏。1990年に長年の投獄から釈放された。

■お祭ムードの裏に忍び寄る影
平成2年(1990年)、日本では1月12日に、秋篠宮さまと川嶋紀子さんのご婚約の儀が行われ、「紀子さまブーム」が起こるなど、新年からお祝いムードに包まれていました。この他にも任天堂の「スーパーファミコン」の大ヒットや、日本人が始めて宇宙に出るなど、「新時代平成」の始まりに期待が高まっていた時期だったと言えるでしょう。

世界的には、平成2年は東西ドイツが45年ぶりの再統一された年として有名です。同年に行われたイタリアW杯では西ドイツが、決勝でマラドーナ擁するアルゼンチンを破り、統一ドイツとなる前のドイツとして最後の優勝を飾りました。またこの年には南アフリカでネルソン・マンデラ氏が釈放等、明るいニュースが目立ちます。しかし、そんな華やかなニュースとは裏腹に、その後に大きな影を落とす事象のきっかけができたのも、またこの平成2年でした。

右肩上がりに成長していた日本経済は、平成元年をピークへと到達。しかし平成2年年から下落が始まり、いわゆる「バブルの崩壊」が始まりました。今でこそ株価の下落は不安を煽りますが、バブル経済にどっぷり浸かっていたこの頃の日本では、この時誰もこの後数十年に渡って日本が不景気に苦しむ事になるとは思っていませんでした。さらにイラクがクウェートに侵攻したのもこの年。翌年アメリカを中心とした欧米諸国を巻き込んだ湾岸戦争に発展しますが、その後の中東情勢が泥沼する発端の一つがこの時期に起こっていたました。



サッカー界

株価の下落が始まったのは平成2年でしたが、バブル景気と呼ばれるものはその後もしばらく続きます。そしてこのバブル景気はプロリーグ設立に思わぬ形で良い影響を及ぼしていました。
■具体的に動き出すプロリーグ
そんな陰りを見せ始めていた日本経済とは裏腹に、日本サッカーはプロ化へ向けて着々とその歩みを進めていました。前年に設立された「プロリーグ検討委員会」。「検討」と名はついていたものの、実はプロリーグ設立は既定路線であり、委員会ではプロ化への具体的なプランが練られていました。

そして1990年3月に「クラブの法人化」、「ホームタウンの確立」、「1万5000人以上収容可能なナイター設備付きの競技場の確保」、「18人以上のプロ選手との契約」、「下部組織の運営」など、7つの条件からなる、プロリーグ参加条件を決定します。クラブの法人化やホームタウンの確立といった条件は、それまでの企業クラブから一線を画しており、川淵三郎氏が掲げていた「地域に根差したクラブ」へのこだわりを色濃く反映させたものでした。

これらの条件は当時、企業チームが主流だった日本サッカー界にとって非常に厳しい条件であり、ここまで厳しい条件を設けて参加チームが集まるのかと不安視する声も出るほどでしたが、蓋を開けてみれば、想定を大きく上回る20チームがプロリーグ参加に名乗りを上げたのでした。これは当時、バブル景気のおかげで、企業が資金を出して、文化・芸術の発展を積極的に支援する活動である、「メセナ」が盛んに行なわれていたことが背景にあります。
結局当初は8クラブを予定していたプロリーグの創設時のクラブ枠は10クラブまで増やされることに。

ここから、参加希望チーム全20チームによるプロリーグ参加レースの幕が切って落とされたのでした。

2019年4月2日(火)19:25

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